池田 修への手紙

2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。
こちらへ投稿を希望される方は、右記のフォームよりご記入お願いします。 https://form.run/@letters-to-ikedaosamu

BankART1929 + 池田修追悼実行委員会

2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。

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BankART1929 + 池田修追悼実行委員会

  • 池田くんへ

    吉本照代

    [時間講師]

    1980年、大阪、難波のロック喫茶で聴かせてくれたのが、ハードロックのバンド、フリーの「オール・ライト・ナウ」だった。静岡に帰って、「ファイヤー・アンド・ウォーター」、「カム・トゥギャザー・イン・ザ・モーニング」、「ハート・ブレイカー」を何度も聴いたね。ポール・ロジャースは、今聴いても、かっこいいと思うよ。
    そして、イエス!「危機」と「こわれもの」。池田君は、ベースの音が好きだったね。静岡の田んぼ道を自転車を漕ぎながら、ジョン・アンダーソンになりきって、空に向かって、「ハート・オブザ・サンライズ」を歌い上げていたね。特に、「シャープ!」と叫んでから、「ディスタンス!」と歌うところ、気持ち良さそうだった。ポリスの「愛しのロクサーヌ」の歌詞が「六さん、六さん、て聞こえるやろ?」と、ニヤニヤしてた。そんな事もあったね。
    デビット・ボウイ、トーキング・ヘッズも、聴いたね。デビット・バーンは、最高にクールだったね。この前、「ストップ・メイキング・センス」と「アメリカン・ユートピア」を観たよ。池田君とその話がしたかったな。
    コルトレーン、マイルス・ディビス、チック・コリア、…。お金がある時は、静岡のジャズ喫茶JuJuさんで、カレー食べながら、ジャズ、聴いたね。私がバイトしてた頓珍館のモロさんと三人で、ジャズの話や岡本太郎、池田満寿夫の話もしたね。モロさん、どうしてるかな?池田君、知ってる?
    中島みゆきも、山下達郎も、大貫妙子も聴いたね。みゆきさんの「蕎麦屋」、達郎さんの「ストーム」、妙子さんの「若き日の望楼」を聴くと、泣きそうになるよ。
    RDレインや、ユング、フロイトの話、湯川秀樹、朝永振一郎、寺田寅彦の話もしたね。「物理学は哲学に繋がる」。水と言う物質の神秘。吉本隆明の評論、詩、「僕が倒れたら、一つの直接性が倒れる」。土門拳の写真集も観たね。中原祐介の本を読んだり、埴谷雄高の「死霊」の話をしたりしたね。「モモ」も、読んだね。…

    池田君が教えてくれた事がたくさん過ぎて、果てしない。ありがとう。君に会えたことで、私の世界がどんなに豊かなものになったか。

    犬や猫、天王寺動物園のマレーグマ、池田君は、動物も好きだったね。
    静岡から、東京、三鷹の下連雀から、西新宿に住み、Bゼミスクールのある横浜の井土ヶ谷のアパートで出会ったトゥンと名付けた子猫をPHスタジオの恵比寿まで連れて行った事もあったね。
    池田君は、子どもにも優しかった。塾の先生をしていた時は、生徒たちに人気があって、コーヒーカップをもらって、大事に使っていたね。おばあさん、「サンダカン八番娼館」の田中絹代さんが大好きだったね。「筑豊の子どもたち」のるみえちゃん姉妹の話もしてくれたね。池田君は、名も無き健気に生きる者たちが好きだったね。
    池田君の静岡の部屋には、馬の絵があった。馬の目が、優しくて、美しくて、何だか、悲しかった。静大の馬術部で馬に乗らないで、餌をやることだけしていたと、話していたね。現代美術に向かう前は、鶴岡政男や高山辰雄の絵を観たりしていたね。パステル画に凝ったこともあったね。あれは、鶴岡政男がきっかけだったのかな?

    私は池田君から、たくさん、たくさん、宝物をもらったけど、私は君に何かあげられたかな?ごめんね。もらってばっかりだった気がする。
    だめだよ。こんなに早く逝っちゃうなんて。
    天国に行ったら、会えるかな?待っててね。その日まで、頑張って、生きるよ。
    それまで、さようなら。また、会おう。

  • 絵をみて感想を聞かせてほしかった。

    宇田見飛天

    [アーティスト]

    私が池田さんと初めてお会いしたのはBゼミスクールの先輩としてです。それから、長い間池田さんの活動を見せてもらっています。私の知る限り、利害関係に無縁でアーティストとアートを本当に大切にし、活動できる場を広げて行こうとした人だと思います。今年の1月に池田さんから携帯に電話がありました。随分長い間会っていませんでした。というのも私は徳島に住んでおりますので……。個展の折には忙しい中駆けつけて作品をかっていただきました。今回の電話で、今年の8月高知の私の家にきて作品を見てもらう約束でした。この頃少し落ち込んでいた私ですが、池田さんの電話で元気をもらい、8月までに沢山いい作品を作っておこうと思い日々制作に励んでいた矢先でとても驚き、悲しみに暮れています。ずっと自分のことを後回しにしてアーティストのために活動してきた池田さんゆっくり休んでください。ありがとうございました。

  • 池田さんの作った孵化装置

    室井 尚

    [哲学者・横浜国立大学名誉教授]

    私が最初に池田さんに会ったのは2004年にST-Spotの岡崎松恵さんと共同でBankARTを始めたころだったと思う。まだ事業を開始する前の旧第一銀行と旧富士銀行を見せてもらったのだが、その時には私がプロデュースしていた劇団唐ゼミ☆の公演場所を探していたので岡崎さんが主たる窓口であり、池田さんとの関わりはほとんどなかった。本格的に池田さんとの交流が始まるのは、馬車道の2拠点から移った旧日本郵船の倉庫、すなわちBankART Studio NYKになってからである。

    池田さんの第一印象は実はあまり良くはなかった。ちょうど2008年の横浜トリエンナーレに向けての改装中だったのだが、池田さんの余りにもワンマンな現場の仕切りを見て少しげんなりしたこともある。他人の意見にあまり耳を傾けない人のように思えた。ちょうどその頃、私は近くの北仲ブリックを借りて「横浜文化創造都市スクール」(通称:北仲スクール)を始めていた。横浜国立大学、横浜市立大学、神奈川大学、関東学院大学、東京芸術大学、東海大学、京都精華大学の7大学が共同で運営する「もうひとつの大学」である。ここでは広く外に向けられた講座やイベント、展覧会などを数多く行っており、2009年の9月にスタートして2012年3月まで続けられた。本当は助成をしてくれた文部科学省から事業の継続を約束されていたのだが、当時の民主党政権による「事業仕分け」の巻き添えを食って一期で中断させられてしまった。

    池田さんはこの時に馬車道近辺での賑わいを共に作っていこうという立場でひんぱんに北仲スクールにも足を向け、いろいろな助言をしてくれ、私たちもお向かいのYokohamaCreativeCityCenter(YCC:旧第一銀行)とともに、BankART Studio NYKをイベント会場として数多く使用させていただいていた。この付き合いはそれ以降も、私が文化庁の支援を受けて始めた「横浜都市文化ラボ」の活動中も続いた。こうした中で池田さんとの交流も深まっていったのである。

    この頃、池田さんをゲストとしたイベントも行ったのだが、印象的だったのはその時にじっくりと拝見した「船、山にのぼる」というDVDである。劇場公開もされたこのドキュメンタリー映画は池田さんがリーダーであるPHスタジオが12年以上もかけて実現した壮大なアートプロジェクトの記録であり、広島県のダムに沈められてしまう村を舞台として、現地で切られた木材を使った手作りの巨大な方舟をダムの一時放流を利用して山の上に乗せてしまうというものである。中でも印象的だったのは、池田さんと細淵さんが二人きりで炎天下の野原で黙々と船を作っているシーンだ。果たしてこれが完成するのかどうかもわからない先の見えない状況の中でたった二人で木を打ちつけている二人の姿は、私が2001年の第一回横浜トリエンナーレで格闘していた全長50mのバッタのバルーンを前に一人で途方に暮れていた時のことを思い出させ、一気に池田さんが好きになってしまった。それ以降も何回か激しいぶつかり合いもあったが、池田さんへの信頼が揺らいだことはない。

    池田さんが何をやろうとしていたのかは、もちろん本人でなければわからないのだが、要するに巨大な文化の孵化装置のようなものを作りたかったのではないかと思っている。さまざまな場所に同時に卵を産み付け、そのうちのいくつかが孵化して巨大な爆発力をもっていけばそれでいい。美術展も、パフォーマンスも、レジデンスも、バーやカフェも、スクールも、いくつものサテライトも、全部そのために仕掛けられたものであり、一つ一つの成功・不成功よりもそこからとんでもないパワーがいつの日か生み出されることを楽しみにしていたのではないかと思う。池田さんになぜか母性的なものを感じていたのもそういうことなのではないだろうか。

    人の数倍も情熱的に働いてきたために死を早めてしまったのだと思うが、どうせ誰かが止めたところで言うことを聞くような人ではなかったのでそれも仕方のないことだと思う。願わくは、池田さんが仕掛けたいくつもの孵化場から新しい才能がどんどん生まれていってほしいものだ。「池田さんのBankART」の記憶はそこに関わった人の心からいつまでも消えることはないだろう。Rest in Peace。

  • BankART義塾と池田修さん

    穴澤秀隆

    [國學院大學栃木短期大学]

    私は、2016年にBankARTが主催した「BankART義塾」という講座を受講した。
    「アーティストを支え、社会とつなぐギャラリーやオルタナティブスペース、フリーランスのコーディネーターを目指す人のための実践的なゼミ」と当時のパンフレットには書かれていた。
    私は、毎週、夕食の時刻に出かけて、現代美術の話を聞くのも悪くないな、という、お気楽でスノッブな市民の感覚で出かけた。

    最初の2回くらいは、講義中心の座学だった。
    ところがところが、その後、講座の内容が急変した。
    池田さんから出された課題は、現在、BankART Studioでレジデンスで制作を行っている50組のアーティストの中から、1組を選んで、実際に作品の展示をプロデュースしてみろ、というものだった。

    作家を選定し、コンセプトを示して、出品交渉をする。
    けれども、誰もが直ちに、企画を承諾してくれるとは限らない。ギャラの問題も発生する。さらに、展示期間中に、事故が起こったり、不測に事態が生じた場合、どう対応するのか、あらゆる事態を想定しておく必要もあった。

    その一方、作品を販売したり、入場料を取ったり、あるいは、メディアに取材を依頼して売り込むのも自由だ。
    これをきっかけに、私が選んだ作家が世界のアートシーンに駆け上がっていく可能性だって、ないわけじゃないのさ。

      つ ま り、

    これはもう実習ではなく、私たち受講生は、気がついたら、アートマネージメントという世界に叩き込まれていた。
    私は、映画を見に行くつもりで家を出たはずなのに、いつの間にか、撮影現場を駆け回り、あまつさえ、私自身が映画に出演していた。そんな感じだった。
    実際に、作家の方から、私のもとに、売り込みに近いようなことがあったし、反対に、受講生同士が作家の取り合いをするような場面にもなりかけた。
    その過程で、企画書やプレスリリースを書くということが、どういうことかを知った。

    プロデュースをするうえで、いちばん大事なのは、「誰を選ぶか」に決まってる。
    その際、作品にインパクトがあることは、当然だが、そこには、その作家の問題意識と私の世界観が、どういう関係を構築できるかという大問題が聳えてる。

    そうなのだ、ここで問われるのは私自身に他ならない。
    だから政治や環境問題に関する意見を闘わせることだって避けられない。
    私はTPPに賛成か反対かということを、若い作家と徹底的にギロンした。
    私は意地の悪い保守派イデオローグの立場に立って、若い人たちを散々言い負かしてやり、痛快だったっけ。
    こうなってくると、その日の講座が終わっても帰る受講生は一人もいない。
    ギロンの輪が生まれ、スマホでアーティストと連絡を取り合ったり、パソコンを開いてその場で企画書を書いたりしていた。
    受講生は若い人たちが多く、私と同世代の人は数人しかいなかった。
    でも、そんなことは、関係なかった、
    アートに携わって、何ごとかをしようとする人たちの熱気があった。

    このようにして、私は池田修さんから、アートマネージメントという世界がいかに面白いかを学んだ。

      の で は な い。

    私が池田修という人から読み取ったのは、もっと本質的で抽象的なことだった。
    それは、知識ではなく、ものごとを、現実や人々の〈関係性〉のなかで捉えることのスリリングな楽しさ、だった。

    池田さんの訃報に接した翌週、BankART KAIKOで開催中の「都市デザイン横浜展」を見た。
    展示を見終え、ずっしり重たいカタログを携えて、外に出ると、もわんと温かい夜気に包まれた。もう3月も末なのか。
    みなとみらいの灯火がさんざめいていた。

    馬車道の交差点で、紺のスプリングコートの襟を立てた、ずんぐりしたボサボサ頭のおっさんとすれ違った。
    池田さん、ではなかった。

    池田修氏と筆者

    池田修と筆者

  • 30年ぶりの再会

    中田和子

    [いけばな草月流]

    口元の微笑みが印象的な池田さんと2021年に再会しました。
    30年前にヒルサイドギャラリーで、私が個展をした時以来でした。
    開口一番は、変わってないネ、でした。30年ぶりですのに覚えていてくださった驚き、そして、嬉しさをかんじました。
    そして、今年の1月のカイコでの、インスタレーションと作品の制作では、沢山のご配慮をいただいたことに感謝しています。
    ある時期、私も、Bゼミに行っていましたので、その話しも懐かしくしました。
    再会して、これからもと思っていた時の訃報は、ただただ驚きです。
    今は、再会できましたことに、感謝しております。
    ありがとうございます。
    旅だった 池田さん
    ご冥福を お祈りいたします。

背景写真提供:森 日出夫

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