池田 修への手紙

2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。
こちらへ投稿を希望される方は、右記のフォームよりご記入お願いします。 https://form.run/@letters-to-ikedaosamu

BankART1929 + 池田修追悼実行委員会

2004年のBankART1929設立当初より18年間牽引し続けた池田 修 代表が2022年3月16日に急逝しました。池田さんの生前の活動から皆さまがそれぞれに受け取ったものを共有し、引き継いでいくために、池田さんにまつわる文章を広く集め、ここに公開していきたいと思います。

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BankART1929 + 池田修追悼実行委員会

  • 池田修さんへ 感謝の気持ちを込めて

    山岡瑞子

    [映画作家、アーティスト]

    私が初めてBankARTに来たのは、BankART Studio NYKで開催された「日産アートアワード2017:ファイナリスト5名による新作展」に、知人の映像作品を観に行った時で、当時そのカッコ良過ぎるNYKに圧倒されたことを覚えています。あの時に、もっとBankARTについて調べたり、通ったりすれば良かった、と後悔していますが、当時は知人が誰もおらず、2002年の米国の美大卒業直後の交通事故の後遺症で足が不自由になり、帰国してなかなか美術系の繋がりを作れてこれなかった私にとっては、とても敷居が高く感じました。その数年後、米国時代の先輩と繋がりのある細淵さんをご紹介頂き、その時初めてBankARTにスタジオプログラムがあることに気付きました。2020年のBankART Temporaryの展示やオープンスタジオの時、受付をうろうろされている池田さんを数回見て、「多分あの人が上の方なんだろうな…」とお姿だけ認識していた状態がしばらく続きました。初めてお話をしたのは、2020年のR16スタジオだったと記憶しています。その時の私は、かつて米国留学時代にプリントした、父を描いたエッチングの版をプリントしてくれる場所を探していました。病に倒れ、病床で命を終えようとしている父に、私が事故前の自分と繋がり始めていることを、プリントすることで示したかったのです。R16のオープンスタジオの際、私がその様な場所を探している理由を聞いて下さった池田さんが、ご親切にも、黄金町にある印刷スタジオと繋いで下さいました。父はその後残念ながらすぐに他界してしまい、その時のプリントを親戚縁者に父の遺影の代わりに受け取ってもらいました。事故で帰国してから、不自由になった身体で日本の美術業界やコミュニティに繋がる場所を見つけられず、出来ることを探して彷徨っていた私は、自主映画の世界に足を踏み入れ、自主制作をしながら、美術のコミュニティを探し続けていました。池田さんは、私みたいな居場所が定まっていない状況の人間には、遠い存在に思えたのに、とてもご親切で、私のような者にも、助け舟を出すことを出し惜しみしない方でした。その後、私もスタジオアーティストに挑戦してみたい、と決意し、2021年のスプリングにアプライし、入れていただき、19年ぶりに ARTの世界に戻れたような気がして、心から嬉しかったです。また、スプリングとサマーのスタジオプログラムに参加中、5年以上まとめられなかった映像作品を完成させることが出来ました。BankARTで撮影させて頂いた部分がなければオチがなかったので、池田さんがスタジオプログラムに入れて下されなければ、この作品は完成出来ませんでした。私は、池田さんに大変助けて頂いていたのでした。時に強い口調でスタッフに指導されてる時は、私もその迫力に吹き飛ばされそうな心境になりましたが、いつも色んな人をコミュニティに入れようとし、優しく接して下さったことや、KAIKOやStationで宴に参加させて下さったり、いつも開かれた場にするように努めておられたように見受けられ、とても感謝しています。池田修さんがお亡くなりになった今年ー2022年の新年の始まりは、KAIKOで、横浜港の花火をみんなで一緒に見たこと、忘れません。私と知り合った頃から、すでに通院しながら闘病されていましたが、BankARTでお姿を拝見する時は、いつもエネルギーに溢れていて、まさかこんな早くにこの様な事態になるとは、全く思っていませんでした。あと10年早く、BankARTの活動に気付き、積極的に関わっていたかった…。もう2度とお会い出来ないという現実に直面し、そんな後悔ばかりしています。池田さん、本当に本当に、ありがとうございました。感謝の言葉しかありません。BankARTにいる時、まだ池田さんがふらっと入って来るような感覚に襲われてしまいます。多分、私などより長くBankARTに関わられて来た旧知のスタッフや関係者の皆さまは、より強くその様なことをお感じになられてると思います…。池田さんのように、私も余生を、全力を尽くして生きたいです。本当にありがとうございました。

  • 池田さんの宿題

    加藤育子

    [キュレーター(スパイラル)]

    2003年のある日、一本の電話をかけました。
    「明日、灰塚アースワークの作品を拝見したいのですが、見られますか?」
    「えっ、明日?なんで?ひとりで?明日??」

    当時、日本各地のアートプロジェクトをリサーチしていた学生の私は、あちこちのプロジェクトやアートフェスに出かけては、作品を見たり、話を聞いたりしていました。灰塚アースワークもその流れで見に行こうと、ホームページに掲載されていた電話番号に問い合わせたのでした。

    そして翌日。空港に到着すると、PHスタジオのみなさんが車でお迎えに来てくれました。
    軽い気持ちでかけた電話だったのに……と恐縮しながらも、論文を書くためにアートプロジェクトを調べていると伝えると、灰塚を車でまわって作品を説明し、さらに「誰に会う?伊藤さんだな、玉井さんだな……」と次々とプロジェクトの重要人物にアポをとって、紹介してくれるのです。そんな展開が待っているとは予想だにせず、丸腰で訪問した自分を呪いながら、会う人、会う人に必死にインタビューしたことを思い出します。

    夕方になると「ワニ食べる?」。見たことのない、ピンク色のお刺身です。広島県三次名物のサメでした。「ビールは、いつも助成金でお世話になってるアサヒ」。スーパードライを、ぐびぐび、ぐびぐび飲んでしまいました。

    「突然さぁ、東京からひとりで来ますって、一体なにかと思ったよ!」と笑いながら、アートの道に進みたいならあの人に会った方がいいね、やっぱり本と記録は大事だよ……。惜しみなく話を聞かせてくれました。それから「こういうリサーチをするなら名刺を持たないと!」と何度も言われました。「帰ったらすぐにね、すぐに作って!宿題!」

    東京に戻ったその足で、すぐに名刺を作って、お礼の手紙と共に送りました。
    灰塚のインタビューとリサーチが軸となって論文は完成し、アートの職にも就くことができました。

    灰塚の、あの1日。
    初対面にも関わらず、ずっとお世話になっている先生のように教え、もてなし、話してくれたこと。 アートに携わる身として、池田さんからの宿題だと思っています。 宿題が終わったら、ワニとビール、お待ちしています。

  • 外に開くということ

    花崎徹治

    [野村総合研究所]

    池田修さんと最初に出会ったのは、コロナ禍が本格化する直前の2019年末。
    BankART Stationでのよろず相談会でした。
    きっと池田修さんにとってはつい最近、といった感じの新参者であります。

    私の所属する会社は、2017年に保土谷の横浜ビジネスパークからみなとみらいの新しいオフィスに移転しました。

    当時、社内で人材育成を担当していました。
    横浜美術館も近いこの地で、人材育成の文脈で企業とアートと接続できないかと企画するなかで目に入ったのが、BankART Stationでのよろず相談会のご案内でした。

    その後、私が「バンカートスクール|ヨコハマみなとみらい物語」に参加したのは2020/12/24のクリスマスイブ。
    池田修さんの大好きなギネスビールと、ケーキを振舞ってくれました。
    そして、回を重ねる中、2020年3月コロナ禍によりスクールは中断を余儀なくされ、社会は緊急事態宣言に突入しました。

    日本企業に勤務する会社員の大半は、開かれた外部との交流を持たず
    会社内外の関係性で、そっと定年を迎えるケースが多いのではないだろうか。

    近隣企業に勤める人にも、同じ土地で活動するアーティストにも、オフィスのある土地に住む市民にも出会えず、みなとみらいエリアに豊かに設置されているパブリックアートにも気づかず見過ごしてしまったのではないか。

    「バンカートスクール|ヨコハマみなとみらい物語」のチラシから言葉を拝借する。

    ──
    新しく誕生する街の真実の姿をみつけ、きこえない声を聴いていくプロジェクトです。
    足で稼ぎ、写真を撮り、文章を書き、住んでいる人、住んでいない人にインタビューをし、
    この街の多様な表情を浮かび上がらせる事ができればと思います。
    そしてみらいの「みなとみらい物語」を綴っていこうではありませんか。
    ──
    http://www.bankart1929.com/news/2020/news/20_002.html

    「バンカートスクール|ヨコハマみなとみらい物語」で、「横浜野村ビルについて」のお話をする機会を提供させていただきました。
    オフィスに池田修さんをご案内する機会を作ることができ
    「あのビルにすごい数の人間が勤めているんだぞ。」
    「内部のカフェにすごくこだわっていて」
    すごく池田さんが喜んでくれていた。

    また一方で池田さんが訪問の際に感じた違和感をストレートに指摘してくれた。
    その違和感は、「中のこだわりに反して、外に開かれていない点」だった。

    「外に開いてほしい」、この時池田さんの口から出た要望を、この横浜の地に受け継いでいきたい。そう感じております。

    池田修と筆者

    池田修と筆者

  • 池田修様

    渡辺和江

    [無職]

    私は『「えびす」─猫の抜け道』で作品(バラック?)の中でお弁当を食べていたあなたと出会い、割りばしの袋がアートになる事を教えてもらったものです。
    よく意味はわかりませんでしたが、あなたの妙に力の入った話が面白くって話が弾んだことはよく覚えています。
    「この人の作る他の作品も見てみたい」そんな風に作者(人)から作品に興味が移ったのはこの時が初めてでした。
    そして、その日を境に私のアートやアーティストのイメージが大きく変わったことは言うまでもありません。

    「船、山にのぼる」のレクチャー会場でお会いした時
    「覚えていますよ」って言ってもらえたこともとても嬉しかったです。あれから何十年?
    あなたとの出会いのお蔭で私は今もアートが、人が大好きです。

    再会の場所は雲の上になりましたが、あの時のあなたのお顔や人柄に恥ずかしくないようにしっかり生ききって、「覚えていますよ」と言ってくれるあなたのまなざしに向き合いたいと思います。

    心からご冥福をお祈り申し上げます。

    2022年5月
    立川市 渡辺和江

  • 生き延びている私たち

    森田彩子

    [GALERIE PARIS]

    BankART NYKのオフィスで朝倉摂夫妻を交えての打合せ(2009)。 原口典之氏の展示マケットを見ながら、ああ~こういう風にね……マケットあったらいいですよね。などと翌年の朝倉氏の個展について話している時、展覧会タイトルを決めよう、と池田さんが切り出した。

    朝倉氏自らが持ってきた「CAT!CAT!CAT!」 演劇系の方からの「朝倉大サーカス」 そして池田さん発案の「アバンギャルド少女」

    猫ってわけにもいかなく、しかしせっかく考えてきたタイトルを容赦なく却下するのも忍びなく、「CAT!CAT!CAT!」は、ギャルリーパリでの個展で使いましょうよ、と私が無理やり引き抜いて、同席していた細淵さんが苦笑。

    「少女ってのがね~」と躊躇されつつも、朝倉さんはなんだかうれしそうだ。「アバンギャルド婆さん」と真意をついたらシャレにならないじゃないかと内心思いつつ、ご主人である富沢幸男監督と、このネーミングに丸め込むことに成功した。

    2014年に他界された時、「アヴァンギャルド少女といわれた朝倉摂の訃報」とこのキャッチフレーズは全国ネットで広まり、あの時に「朝倉大サーカス」に決まらなくてよかったと、私は傷心しつつも、池田さんのキャッチコピーのセンスに敬服した。

    人類始まって以来、この世で永遠の命を得た人は一人もいない。
    あの世に行ってしまった人たちと、今ここにいる私達の違いは、時間軸のほんのささやかなラインの差でしかない。

    「生き延びている私たち」は、池田さんの姿を頭の片隅に感じながら、前に進むことしかできない。

    朝倉摂ドローイング

    朝倉摂展用ドローイング

背景写真提供:森 日出夫

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